~日々の気になるメディアトピックを気ままにコメント分析~

Monday, May 23, 2011

やっぱりダルデンヌ(カンヌ映画祭)

日曜の午後、ダルデンヌ兄弟監督の『少年と自転車(仮題)』(原題:Le gamin au vélo)を見に行った。今年のカンヌ映画祭のノミネート作品で、映画を見た数時間後に、この作品は最高賞に次ぐ「グランプリ」に輝いた。

ダルデンヌ兄弟の映画は、もともと「好き」というカテゴリーに入っていて、『少年と自転車』も自然と見にいく流れになっていたのだが、数えてみたら1999年の『ロゼッタ』以来この兄弟監督の作品はひとつも見ていないことに気がついた。

ちょうど、出産・子育てで忙しく、昔のように映画館に出掛ける余裕もなく、ダルデンヌ兄弟の映画が封切りされるたびに批評を読むことにより、何本か見た気になっていたのだろう。

と、前置きはさておいて、やっぱり良かった!

父に捨てられた少年の愛の渇望。やり場のない感情の激しさ。ひょんな出会いから本物の絆を築き上げる血の繋がらない「親子」。

決して不自然じゃなく、お涙頂戴じゃなく、道徳の押し付けではなく、正解も不正解もなく、地域の不良少年から書店の主に至るまで、登場人物すべてが、それぞれの立場をそれなりに精一杯に生きている姿が見事に描写されている。


ある偶然(必然?)から、施設暮らしの少年のホストファミリー(といっても女性ひとり暮らし)となるサマンタ(セシル・ド・フランス)は、「大切なこと」「物ごとの本質」を直感的に察知し自然に行動できる能力が備わっている人物で、まさに、私が目標とするところの母親像である。そんな彼女も、映画の中で聖女扱いされてるわけではなく、ただの一人物として描かれている。

ところで、自分が男の子の母であるせいか、最近どうも少年が出てくるお話に弱い。

数ヶ月前、昨年のカンヌ祭で上映され、やはり10歳前後の少年の話を描いた、メキシコのディエゴ・ルナ監督の作品『ABEL』を見に行き、感慨に包まれた。
また、子どもを産んで間もないときにDVDで見たイタリアの故ルイジ・コメンチーニ監督作品『天使の詩』(1967、原題 Incompreso、仏題 L’incompris)には涙が止まらなかった。

今回、『少年と自転車』のシリル君も、私の母性?(それとも子供心?)の琴線に見事に触れてくれた。

Sunday, May 22, 2011

震災について、ふたことみこと

地球の裏側に住むにも係わらず、そして、日本の家族が被災地にはいないにも係わらず、震災のショックをまともに受けてしまった私は、生活がほぼ元通りになるまで少し時間が掛かってしまいました。おそらく、多くの外国暮らしの邦人が同じ思いをしたことでしょう。

震災発生直後から仏メディア、日本メディア、両方をライブでつぶさに追う日々。国による情報の扱いの格差については、当時話題になった通りで、首都圏に家族を抱える在外邦人としては気が狂いそうでした。

たとえるなら、ハリウッド映画。時限爆弾を仕掛けられたビルディング(日本)に住む人々が、ビルの内部放送では『ちょっと問題がが発生しましたが、ただいま修復中ですぐ終ります。』とアナウンスを受ける。一方、ビルの外(海外)にいる身内は時限爆弾のカウントダウンをライブで追っていて、トムクルーズばりのヒーローが時限装置を解除するのをひたすら祈っている。

映画なら娯楽だけれど、これが実際だとしたら冗談ではないでしょう。両国のメディアの影響をまともに受け、大げさではなく、一時、このような心理状態に陥ってしまいました。二度と、このような思いはしたくないです。

よく考えれば、フランスの福島原発関連ニュースも、情報源は日本の当局が発したものしかないはず。しかも、当初、ほとんどの外国人ジャーナリストは、東北地方はおろか首都圏からも脱出したので、独自の取材すらい出来ていない状態。

要は、『コップに水が半分入っている』という共通の情報ソースから、『まだ半分残っているので、大丈夫!』という日本のニュースと、『もう半分しか残っていないので、絶望的だ!』というフランスの報道。情報って、いくらでも操作できるもの、と思い知らされました。

いずれにしても、2ヶ月以上経過した今も、そして、仏メディアではほとんど話題にならなくなった今も、この件に関しあまり述べる気になりません。故郷のあまりの惨事に、悲しみと憤りがいまだ深いので。なによりも、日本の状況の収拾はついていないし。。。

この間、フランスではルノーの産業スパイ事件の結末や、世界ではロワイヤル・ウエディング、ビン・ラディンの死、リビア情勢など、、、。2ヶ月間の出来事を振り返る気はないけど、また少しずつでも、気の向くままに書いていこうと思います。